6月が終わり7月に入りました。
今年も早々と下半期突入ですね。すでに毎日とても暑い!
なかなか書けないでいた「心に残り続ける言葉たち(1) 」の続きをまた書いてみようと思います。
2つ目の「自分を守り過ぎることは自分を滅ぼすことである」
何だかちょっと物騒な表現も含まれてるような言葉ですが、
この言葉は、元々の内容をちょっと私が自分が馴染みやすく改訂したものなのです。なのでオリジナル様、誠にすみません。まずオリジナルの話をしましょう。
黒澤明監督「七人の侍」という有名な映画に出てくるセリフです。
「他人を守ってこそ自分を守れる。己(おのれ) のことばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ」という、志村喬 さんが演じる侍の言葉だったと思います。実際のセリフが長かったので自分なりに短めにしたものをとりあえず自分の心のポケットに納めていました。
海外でも有名なこの映画を見たのは20代後半か30代前半かそれくらいでした。ということは今から20年くらい前か。
映画の内容から最初この言葉から得た教訓は、「自分だけ良くてあとの人のことはどうでもいい、みたいな心根ではいかんな」という感じでした。とりあえずそれでもそう間違ってもなさそうなシンプルな捉え方でした。
様々な映像作品を見たり音楽を聴いたり絵を描いたり色んな人に会ったり、好奇心旺盛に生きていた30代前半。七人の侍のことは一旦忘れ、その後私は様々な人生の遍歴を歩むことになります。
その当時やっていたシステムエンジニアの職を辞めることになります。その後たまたま自分が施術を受けてその手技がいたく気に入ったという理由でロミロミを習いに行くようになります。(あと東京から九州の地元に戻ります。)
更にそのロミロミをきっかけにハワイやアメリカ本土など海外に行くようになる。そしたら、何だかとてもスピリチュアルな感じの人や超自然なネイティブな人たちに出会うことが多くなる。でもそう言った方々とも一旦離れて自分なりに深く内観し、瞑想するようになって行く。40代に入ったところで大きく体調を崩してしまい、ロミロミセラピストとしての仕事が難しくなり辞めることになる。
そんなこんなで20年ほど過ごすうちに、自分の中でそれはたくさんの気づきがありました。近年体調は崩したけど、でもその期間を利用するかのように一人でかなり深く内観し続けました。自分という人間について更に多くを知る大事な時間になった気がします。
改めてまた七人の侍の言葉を思い出すようになり、ああこの言葉って陰陽とかのバランスの話にもちょっと似ているんだな、と思うようになりました。
「陽が極まれば陰に転じる」その逆も然り、みたいに。自分のことは勿論大事だけどそれが度を過ぎれば今度は逆に自分を守れない、そんな感じの意味にもとれるような気がしました。
少し脱線しますが、私の名前「矛」(まゆみ)は本名になります。珍しい漢字です。自己紹介するとすぐ相手の方からこの名前をしばらく話題にされます。
「ほこ」と呼べるこの漢字をわざわざ「まゆみ」と呼ばせるなんて、まあ当て字だと思うのですが、私が生まれるとき祖母らが四柱推命の占いで決めたのだそうです。初孫だったこともあって気合を入れて占い師に相談して名づけてくれたようです。(笑) なぜこの漢字を「まゆみ」と呼ぶのかネットで調べてみても何もわからず終い。いまだに謎のままです。(もし知ってる方いらっしゃっるならぜひ教えてくださいな )
「まゆみ」だと「真弓」という漢字がよく使われることが多いですが、これについては「マユミの木」という樹木が実際あるらしく、弓をこの木から作ったくらい丈夫な木だったことから「真弓・檀」の漢字らしい。(←矛という漢字はやはりここでは見当たらなかった)
ただわかったことは「ホコ」にしても「マユミ」にしても武器の話がつきまとうということ。私の名前ってなんだか勇ましいなあ、なんて思います。
「矛(ホコ)」は、槍(やり) や薙刀(なぎなた) の前身と言われ、神が所有する武器として、はたまた国造りの儀式の道具として、古事記などの神話にも登場。
それから「矛盾」という言葉。これも矛は「ホコ」という武器として登場。あっお前の名前の漢字だな!(攻撃の武器だから) こわいこわい!と同級生の男子に時々いじられた気がします。
そんな中学で習う矛盾という言葉。一般の方より私にはずっと身近であったからか、もう少し大人になって知った「陰陽」という言葉についても、最初聞いたとき、何だか私には遥か昔から身近であったなような そんな気持ちになりました。紀元前の中国での思想という点では同じだからかも知れませんが。
相反する二つ。その状態、の意味を持つ「陰陽」。そしてまた「矛盾」も。
ロミロミのセラピストの仕事を始めたばかりの頃、来日されていたダライ・ラマ氏の講演会に行く機会がありました。そのときにも話をされていたのが「利他の精神」。その内容もですが、その話をされてるときの氏の目の奥にある深い深い感じが、とても印象的でした。ああ多分、利他心というのは、人間が生きていく上での肝なんだろうな、そんな風に思うなどしました。
人同士は、無意識と呼ばれる深い深い意識の層ではつながっていると聞くことがあります。それは意識しようと思っても意識できる部分ではないけれど、でもそれが本当なら、自分以外の誰かを敵視して、それでも自分は安全でいられるとは到底思えないような世界のように思えます。
自分だけが助かろうとするエネルギーは、自分以外の他人のことは危うくてもいいという態度と考えにもなってしまいます。それを実際にしてしまえば、そのエネルギーは自分に向けひるがえり自分を危うくする ことになる、そういう意味も七人の侍の言葉の中にはあるように思いました。
逆を言えば、人の為になることは実は自分の為になる。そんなエネルギーの話が、言葉の深くに隠されているように、私は勝手に思うのでした。
私の生きる今の人生は、「矛盾」や「陰陽」という言葉が生まれた遥か昔から今の時代までに比べたら、短く儚いものかも知れませんが、それでもその間において、どのように生きることが、誰かの為にもなる生き方になるのか。
自分の中に残り続ける言葉が、普段の生活の中それを忘れてしまわぬよう、その響きで、これからも私に語り伝えてくれるように思います。